時間価値の変質

月曜日の朝7時半、事務室に一番早く出勤して、課内の机を拭くとき。電気ポットからバケツに注いだ残り湯の温さから、日曜の夜まで休日出勤していた同僚がいたのだということを確かめる。そのときの、やるせない気持ちといったら…。平日も毎日夜遅くまで仕事をしているのに、休日にも出勤しないといけないなんて。これが一体、誰のどんな幸せにつながるというのか。多くの人にとって、貴重な時間とエネルギーと精神力の単なる消耗に過ぎないのではないか。そうしみじみ考えてしまう。


自分も切羽詰まった難題だらけの仕事を色々抱えているが、休日出勤はほとんどしないようにしている。なぜなら、土日は妻と子供と一緒に過ごす時間に充てたいからだ。平日ほとんど不在状態になっている埋め合わせには到底足りないが、とにかく家族で一緒にいる時間が今一番最優先すべきことだと思っている。仕事は数十年先もやらねばならないし、ある程度はあとでまとめてやることもできるが、子供が小さいときというのはあとで取り返すことのできない一瞬の期間である。いつ死んでも悔いのないように今を精一杯生きる…自分のその信念に照らせば、どちらがより大事なことかは自明だ。それでもなお、平日に早く帰ることができない矛盾は不満として燻るが、課内誰もが手一杯の状態であるし、自分の能力や努力の不足を棚にあげて自己主張するほど傍若無人でもないので、ギリギリのところで胸の中に押し込めて、日々の残業に耐えている。


子供を育てるというのは、楽しくもあり、大変でもある。子供はとてつもなくかわいいのは事実だ。だが、かわいいから無限に何でも許せる、耐えられるかといったら、そんなことばかりではない。親である以前に一人の人間として、ミルクを飲んでくれなかったりして思ったように行かないときはストレスがたまることもあるし、たまには自分の時間が欲しいときもある。育児の性質上、子供の行動に対して計画という概念は通じない。無条件かつ無制限に時間を充てねばならず、時間の自律性が低下していくなかで、いかにして自分の人生のアイデンティティーを保てばよいのか。その葛藤の中で、自分が今選んでいる方策は、「小さな幸せに満足する」ということだ。以前のように予定をぎっしり詰め込み、消化することに達成感を見いだすのではなく、服をクリーニングに出してきれいにしたとか、床屋に行って頭がさっぱりしたとか、好きなアーティストのCDを買ったとか、そんな些細なことが1つでもできたら、今日はいい日だったと満足して締めくくる。そういう「足るを知る」生活を送ることが、大変なことがあっても自分らしさを失わないために大事なことだと思っている。


時間が過ぎるのは早いが、悪いことばかりではない。以前は発売日が待ち遠しかったマンガの新刊は、ふと気付くと何冊も溜まっているようになるし、子供もみるみる大きくなる。おそらく、今は人生における「時間の借金返済」の時期なのだろう。自分が赤ん坊や子供のころに、親や周りの大人が世話をしてくれたときに彼らから借りた時間の、返済をしているのだ。そう考えれば、勝手な解釈だが経済学的にも納得は行く。変わっていく時間の価値と向き合いながら、これからも、明日尽きるとも知れない人生を、家族とともに大切に生きていきたい。

(90分、携帯)