耽想

物思いに耽る・・・そういう活動が、今一番足りていない。夜に、ふと、「5年先、10年先、このままの自分で通用するか?」なんて思い始めると、どんどん色んな事に考えが拡がっていく。いやダメだ、変わらなければいけない、今の時点でも通用してないんだから、と危機感がまず沸き起こって、そこから仕事への取り組み方、職場での人間関係、若手職員の間での立ち位置、大学はどうあるべきか、日本の教育は・・・なんていう具合に、連想ゲームのように多様なテーマが頭の中を駆け巡っていく。そのとき、自分がいかに「考えることをおろそかにしているか」ということに気付かされる。自分で考えないというのは、本当に恐ろしいことだ。大災害に遭遇したときの身の守り方、家族の安否の確認方法、非常時持ち出し用品の整備、これらは東日本大震災が起こったときに、「早く考えて、備えを講じなければ」と思ったことだった。そのときは、切迫感を持って、「自分の利益の根幹に関わる問題」として真剣に捉えていた。しかし、震災から14カ月を経て、危機意識は震災前の水準にまで再び低下してしまった。その原因は、ひとえに考えるのを怠ったことによる。仕事に行って、買い物をして、帰ったら寝る。そんなマンネリの毎日を繰り返す中で、忘却の彼方に追いやられてしまったのだ。自分が抱える諸々の問題も、同じように野ざらしにされてきた。考えるというのは、人間にとって食べることと同じくらい大切な営みだと思うのだが、1日において一体どれほど自分のこと(自分の在り方に関わること)について考えているかといえば、おそらく食べている時間より少ないだろう。それが非常に残念でならない。もっと、考える時間が、そしてその考えを実行に移すための時間が欲しいと、心底思う。仕事を1カ月くらい休んで、ネットやマスメディアの情報を一切遮断して、ただ自分の目と耳と手で情報を得て、それを材料に自分の頭で様々なことを柔軟な発想で考え、最終的に文章にまとめてブログにアップする。そんな社会の喧騒から身を置いた生活をしてみたいなぁなんて思う。お金がなくてもいいから、そんな仙人のような生活が出来たら、きっと充実感に満たされるだろう。自分はそういう人間なのだ。そういえば、学生時代もそういうことに時間を多く割いていた。紙を前にして、一人でよく考え事をしていた。そう、一人でだ。思うに、学生時代と現在との一番の差は、一人でいる時間が短くなったことだろう。一人でいれば、おのずと考え事をするようになる。それが自分には大切な時間だった。一人で考える時間をいかにして作り、それをどうやって行動に結び付けて、自分を変えて行くか・・・。その方法について考える時間を、まずは設けなくてはいけないようだ。

(50分)