シューカツ

夕食後、「セカイでニホンGO!」という番組を見た。人生の終わりに向けて準備する「終活(しゅうかつ)」がブームになっていることが取り上げられていて、主に中高年以上の年配の方々がそういう活動の主体として紹介されていた。この用語を聞いたのは初めてではないし、自分も組合員証(保険証)の「臓器提供意思表示欄」に記入したり、エンディングノートを書いてみたり、病気や事故に遭ったときどうしようかと考えたり、そういうことはたまにしている。昔から、「生と死は表裏一体、紙一重」「明日自分が生きている保証はどこにもない」「明日死んでも悔いのないように生きよう」「生きることは満足して死ぬための準備期間」などと考えて、少しネガティブなアプローチで人生のかけがえのなさについて思いを馳せてきたが、就職してから頭が疲れてそういう発想を少々サボっていたので、いい機会だからもう一度考え直すかなんて思いながら番組を見ていた。ただ「なるほどー」と思って感化されるのもつまらないので、番組に出てきた人の主張に対して頭の中で反論したり、「じゃあ○○ならどうだろう」と別の可能性を考えたりしながら視聴した。漫然と受動的にテレビを見るより、そういうふうに見る方が自分の中で知識や考え方を咀嚼しやすいし、おもしろいので好きだ。番組の出演者の一人のつもりで、自分も勝手に盛り上がった。


結論としては、終活は大事なことだし、国内で年間100万人が自然に亡くなる時代を迎え、その数が年々上昇していくことが確実である状況の中で、人々が生前から自分の死と向き合い準備を始めるのは必然の流れだと思った。ある意味、人生そのものが壮大な終活であるのだから、引退して悠々自適しているご老人よりも、自分の人生をこれから切り開いていこうとする若者こそが、真剣に考えなければいけないテーマであるとも思った。夢半ばで倒れた時に何の心の準備も出来ていなかったら、辞世の句や大切な人への感謝の言葉を用意していなかったら、死んでも死にきれないというものだ。そういうふうに捉えると、全ての人が取り組むべき活動と言えるかもしれない。ただ一方で、そういう「活動」をしないと、死について真剣に考えることがなかなかない今の日本というのは、相当に平和なんだなとつくづく思う。戦争や疫病や犯罪が、いとも簡単に人の命を奪っていくような社会だったら、能動的に終活をするなんてことを考える余裕はないはずだ。そういう極限状況では、人は、恐怖の中で必死に何とかして生きることだけを考えるだろう。死は遠い将来の話ではなく、すぐ目の前に立ちはだかる存在であり、それから逃れることがしなわち生きることを意味する。そういう状況が世界のどこかに存在していることを思えば、明日も自分が生きていることを暗黙のうちに当然のことと思っている日本という国は、何だかんだ言ってもやはり恵まれており、幸せであると思う。


終活をしている人は、それを出来ることに感謝して、自らの人生を満足いく形で全うするために努力をして欲しい・・・。そう願ってやまない。

(60分)