ディーラーとの決別

昨日はアクセラマツダのディーラーに持ち込み、修理をしてもらった。オイル漏れを起こしていた左リアショックアブソーバという部品、いわゆるダンパーを交換する作業で、この修理によって左後輪付近から生じていた走行中の異音が解消した。この現象は3週間ほど前から目立つようになっていたもので、走行中、マンホールのフタのくぼみやちょっとした段差を踏む度に、「ガタン!」「バコン!」と非常に騒々しい音が車内に響き渡ってストレスを感じていた。その騒音が耳に染みつくぐらいに頻繁でほとほと参っていたものだから、修理後に家に帰る途上で、異音が一切しなくなったのを確かめたときにはちょっとした感動を覚えたのだった。

 

 

ダンパーの破損は老朽化が原因だったが、この修理は安全性と快適性の両面から必須のものだったと思うし、2万円弱の費用を払うに足る結果が得られたと思って納得している。だが問題なのは、異音の原因がダンパーのオイル漏れだと突き止めたのがディーラーではなく自分自身だったということだ。「異音がする」「駐車場に油溜まりができている」という2点を訴えて最初にディーラーに修理に持ち込んだのは2週間前だった。そのときは、自分が「(ダンパーではなく)『リアバンパー』ががたついているのではないか」と主張したせいもあって、点検してもらった結果は「異常なし」とされ、「バンパーの経年劣化だから仕方ない」という説明を受けた。しかし異音は相変わらず邪魔だし、油漏れの原因は不明だから自分としてはどうしても納得いかなかった。その数日後、冬タイヤに換装したついでに左後輪のタイヤボックスをのぞき込んだときに、偶然ダンパーが油でにじんでいるのに気付き、これが異音と油漏れの原因ではないかと考えて、すぐに再びディーラーへ持ち込んだ。すると今度は自分の主張通り「ダンパーの油漏れ」と診断され、部品の取り寄せを経て、昨日の交換・修理に至ったのだった。

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↑油漏れを起こしていた左後輪のダンパー(写真中央の軸)

 

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↑アパートの駐車場にできた油溜まり



最初に点検してもらった2週間前の時点で、「左後輪」と訴えていたにもかかわらず油漏れの原因を特定できず、後から素人の自分に言われてようやく気づいたディーラーの(エンジニアの)対応のお粗末さ。これに今回という今回は、自分もあきれ果ててしまった。ディーラーの仕事ぶりが信頼できないということと、後部座席スライドドアのファミリー向けの新車を作っていないこと、この2点から、自分は次に買い換える車はマツダ車以外にすることを決心するに至った。具体的な車種は未定だが、少なくともマツダ車をマツダのディーラーから買うことはない。これまで10年間お世話になったし、営業担当者の人柄は個人的には好きだが、商売相手としてはもうこれ以上のお付き合いはお断りだ。来春5月頃の納車を目指して、これから次の車選びに動き出したい。

(40分)

余命10年からのリスタート

このブログの開設から、10月10日で丸10年を迎えた。2009年に当時大学4年生だった自分が触発され、ブログを始めるきっかけとなった友人たちのブログは、遙か昔に更新停止または閉鎖され、現在まで続けているのはいつしか自分だけになった。大学生から社会人、そして結婚し、子供を持つ親の身に・・・と、この10年間で自分を巡る環境や心境も絶えず変わり続けてきた。そんな激動の中でも、今もなおこうして、細々とではあるが書き続けているということは、ブログが自分の生きてきた足跡を辿る証人として、それだけ重要な位置を占めてきたということにほかならない。

 

思えばこの10年間、ブログの更新のことを全く考えない日は、ほとんどなかった。自分が見聞きし、体験し、感じたことを、何としても書き残さないといけない。未来の自分のために、それらを自分の頭の中から外部記憶へとアウトプットしないといけない。そんな、使命感とさえ呼べるような感情に突き動かされ、何とか時間を工面しては、パソコンやガラケースマホでせっせと記事を書き更新してきた。少なくとも5年ほど前までは、それが自分の「行動原理」として確固たる存在感を放ち、機能していた。その原動力となっていたものは、おそらく2つ。ひとつには、この世界のことをもっと知りたい、あらゆることを自分自身で体験してみたいという強い好奇心、いわゆる「ファウスト的衝動」があったこと。それは、この世界への愛着とも言い換えられる。自分の所有物をなかなか捨てられない(保育園児の時に描いた絵が5年ほど前まで残っていたほどに)という自分の幼少時からの性格も、この世界への愛着に通底しているのだと思う。もうひとつには、自分の人生を記録することで、生きた証をこの世界に残したい、時の流れが自分の人生を風化させていく「忘却」という摂理に抗いたいという思い、いわば「生への執着」があった。それは唯一無二で一度限りの自分の人生を大切にしたいという思いそのものであり、自分の生物としての本能が記録という行為に強く表れたものと言える。そのため、ブログ開設以前から、自分は記録という行為に非常にこだわってきたし、断続的だったり形式を変えたりしつつも、様々な種類の記録を残し続けてきた。これらを整理すれば、自分の行動原理は「ファウスト的衝動⇒思考・行動⇒生への執着⇒ブログの更新」という流れになっていたと言えると思う。ブログの更新によって、頭の中の情報が整理・外部化され、ある意味でリセットされることで、自分の関心のフォーカスがまた別の事柄に切り替わり、新たな思考・行動につながっていくという正のループがそこには確かに存在していた。

 

だがそれも、もはや過去の話になりつつある。自分で自分の時間と行動をコントロールできない身になって以降、自分の興味関心を最優先にするファウスト的衝動は弊害しか生まず、数多の挫折の果てに徐々になりを潜めていった。また、生への執着も同じように希薄化の一途を辿り、手帳や日記に何もコメントを書かない日も多くなっている。昔は「これができるようになりたい」「これをやるまでは死ねない」という目標や理想像がいくつかあったが、今はそうした一切のこだわりは意識の外に葬り去り、日々に流されるまま生きているような状態だ。そうなると、このブログの存在意義も、次第に揺らいで行かざるを得ない。果たしてもうこのブログは、役割を終えたのか、そんなふうに自問せざるを得ない。

 

だから、自分はブログ10周年のこの節目に、こう宣言したい。「自分の余命は、あと10年。2029年に自分は死ぬ」と。これには、2つの意味がある。ひとつは、人生の期限を区切ることで、時間の価値を高め、やるべきことの優先順位を明確にしよう、実践につなげようという戦略だ。人生100年なんて言われると、時間がまだあるからやるのはいつでもいいか、というような気がしてくるが、残り10年しかないとなれば、やりたいこと、やるべきこと、その中で実際できることを必死で考えて取り組もうという気持ちも湧いてくる。時間を大切にしようと強く思うようになる。そのためのカンフル剤として、リミットを設定するということだ。もうひとつは、自分の残り時間を意識し、健康に留意することで、できるだけ精神と身体の寿命を引き延ばそうといういう戦略である。どういうことかというと、今の自分が相当消耗していることを正しく自覚しないと、ひょっとするとあと10年以上生きることはできないかもしれないという危険があるのである。もっと、自分の心身を大切にし、心も体も積極的に動かして、健康を増進しよう・・・そう自分自身に訴えるためのメッセージということだ。実際、10年後は42(死に)歳になる年だし(ただし数え年の大厄だとその前の2028年)、その懸念を払拭する意味で、今から終わりを意識し、対策していくに越したことはない。当然、この余命は、突破することが目的である。

 

もっとよりよく生きるために、その道具としてブログにもう一度光を当てるために、自分の余命は残りわずかだと意識して、これからの10年を生きること。自分の大切なものと向き合っていく10年間にすること。それを目指して、今ここからが、新たな自分のリスタートだ。

 

(70分)

過去記事の掲載時刻

はてなダイアリーからはてなブログになって、機能がいろいろと変わったが、個人的に一番残念だったのは、「記事の掲載時刻」が記事中に表示されなくなった点だった。これまでは、記事の上部に日付と日時が記載されていた。そして、それが自分の人生の足あととして、結構重要な意味を持っていた。特に、24時をまたいで深夜に記事をアップしている場合が割と多いので、この当時は夜中何時まで起きていたのか、どれくらい夜更かししてまで記事を書こうと血道を上げていたのかというのをうかがい知る上で、貴重な情報でもあった。ちなみに自分の場合は、24時を過ぎても、朝5時(5時半だったかも)までにアップすれば、前日の日付で掲載されるように設定していて、毎日記事を書いていた頃は、そのリミットを意識していた。その時刻情報がざくっと削られてしまったのは、個人的には大きな損失だと感じていた。

 

だが、今日ふと、記事の最下部の「○日前」(古くなるにつれて「○年前」になる)という自動表示の文字にカーソルを合わせたら、日付と時刻が表示されることに気づいた。もしやこれは掲載時刻ではないかと思い、個人的にバックアップしてあった過去(2010年頃)のブログデータの掲載時刻と照合してみた。すると、日付と分と秒は一致していることを確認できたが、「時」だけがなぜかズレている。そしてブログデータと、はてなブログの記事の表示をいくつか比較して調べてみた結果、次の結論を得た。すなわち、「○日前」にカーソルを合わせると表示される日時は記事の掲載時刻だが、自分のはてなブログ上での掲載時刻は、実際の掲載時刻より「マイナス9時間」ズレている、ということである。例えば、2019年9月4日の記事「ほぼ日手帳2020」の場合、表示される日時は「2019-09-03T21:06:42Z」だが、実際の掲載時刻は「2019年9月4日 6時6分」であり、ちょうどマイナス9時間のズレが生じている。TとかZが何なのかはよく分からないし、なぜ9時間ズレるのか、ほかの人のはてなブログだとどうなっているのかは分からない。だが、とにかく自分のブログ場合はこうなっているのである。少々面倒くさいし、スマホではカーソルを合わせられないからパソコンでないとこの方法は使えないが、とにかく時刻も確認できるということが分かって、ちょっと安心したのだった。

 

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(20分)

ほぼ日手帳2020

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9月に入り、今年も残すところ4ヶ月。自分がこの時期に真っ先に考えるのは、「そろそろ来年の手帳を買わなくては」ということだ。そして、手帳と言えば、自分にとって誰がなんと言おうと「ほぼ日手帳」が唯一の選択肢である。先月「ほぼ日アプリ」をスマホにインストールしたこともあり、「2020年版」の9月1日からの発売開始を例年以上に強く意識していた。それで昨日、ほぼ日ストアで注文したのが、この「MOTHER2/Pixel Patterns」(2019年版の再販)のカバーと手帳本体のセットだ。昨年はロフトの店頭で本体のみを買ったので、カバーとセットで買うのは2年ぶり。デザインにビビっときて、MOTHER2のカバーを選んだ。今回でMOTHER2デザインのカバーは3つめとなる。今までは1年間同じカバーを使い続けてきたが、ときどき気分で変えてみるのもおもしろいかもしれない。ヨシタケシンスケさんのシールも、ジョークグッズとして買ってみた。絵本を何冊か読んだことがあって好きな作家さんなので、手帳にユーモアを添えるのに使ってみたいと思う。「ほぼ日の週間手帳」は今年に入ってからほとんど使わなくなっていたので、今回は注文しなかった。近々届く来年の手帳に思いをはせるとともに、今年の手帳にもっと書き込んだり貼り付けたりして活用することも大事にしなければ、と改めて思ったのだった。

 

(15分)

decade

「真夏のピークが去った」のフレーズで始まるフジファブリックの名曲がラジオから流れるのを聴いてから、はや二週間。その日は盆休みの初日だったが、毎日家事育児に明け暮れ、結局市内からも出ることなく6連休は終わった。そんな最近の出来事さえ遥か過去のことのように感じる目まぐるしい日々ではあるが、時々ふと、もっと昔の記憶が頭をよぎり、しみじみと懐かしい気持ちになることがある。ラジオで聴いた「若者のすべて」がいざなったのは、10年前のちょうど今ごろのある出来事の記憶だった。

 

 

2009年8月下旬、自分はS君と二人で、北海道へ向かうフェリーに乗り込んだ。当時は大学4年生の最後の夏休み。公務員試験の筆記と面接がほぼ終わったものの、お互い就職先の内定がまだなくて、若干自暴自棄気味な状態になっていた。そんな中でちょっと思い切った気分転換をしよう、くらいのノリでぶらっと北海道旅行に出かけたのだった。特にどこをどう巡るというはっきりした計画もなく、レンタカーを借りた札幌からスタートして、ゴール地点の苫小牧まで、概ね海岸線沿いに時計回りで、広大な北の大地をひたすら車で走った。その距離、4日間で約2000km。S君が持っていたツーリングマップルと、自転車旅行経験があった彼の記憶を頼りに、名だたる観光地から隠れた名所まで、1日中走りながら次々と訪れては写真に収めた。ホテルには一切泊まらず、車中泊やネカフェで夜を明かす貧乏旅。自分にとってはそれは、初めての北海道であり、初めてのレンタカー旅行であり、そしてどこに辿り着くかというわくわく感と未知の土地での不安とに満ちた、一つの「冒険」であった。あとにも先にも、自分の中で冒険と呼べるような旅は、これっきりだと思う。あのときの自分だからこそ、S君が一緒だったからこそ体験できたことであり、決して再現性のない一度きりの出来事だったからこそ、その記憶は自分の中で強い輝きを放ち続けているのである。あのとき、車の中で流れていたのが、CDに焼いて持ち込んだフジファブリックの音楽だった。そして、若者のすべては、確か知床半島羅臼の辺りを走っていたときに流れていた。フジファブリックはそれくらいに、当時の自分の記憶と強く結びついていて、タイムマシンのように記憶を蘇らせる力を今でも持っている。あの旅行で自分の世界観は大きな影響を受け、それ以降様々な土地に毎年旅行に行くようになった。視野を拡げるきっかけをくれたS君には、今でもとても感謝している。

 

 

あれから10年の歳月が流れた。自分も彼も大きく変わった。卒業後も毎年一緒にスキー場に行ったりして交流は続けてきたが、お互い家庭を持って(彼も結婚し、去年お子さんが生まれた)、なかなか会えない身分になった。最後に会ってからもう3年近くが経つ。でもそれもまた人生のサガというものだ。いずれまた会うときは来るし、そのときは特に大げさな挨拶もなく、これまで通りのそっけないやりとりを再開できるだろう。そんな日を期待するともなく待つことにして、10年前の記憶を再び引き出しの中に仕舞うとしよう。


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(60分)

ピリオド

昨日の朝、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGを観終えた。大学1年のときに初めてDVDを観て以来、約13年ぶり2回目の視聴だったが、攻殻のことを何も知らない状態だった当時とは全く異なる味わいがあった。

 


攻殻の特徴としてよく語られるのが、1話あたりの情報量が膨大だということだ。大型放射光施設「SPring-8」だったり、放射能除去装置「日本の奇跡」だったり、何の説明もなく、実在のものと架空のものとが混在した形で矢継ぎ早に登場するキーワードの数々に、初見当時は自分もかなり翻弄されたと思う。だが、アップルシードも含めた士郎正宗作品の世界観に関する知識を蓄え、現実世界の知識も強化した今の自分には、それらは壁とはならず、むしろ物語をより深く楽しむための助けとなった。

 

前回の視聴で、一通りのストーリーと結末が分かっているからこそ、登場人物のセリフを単語レベルで聞き取ってその意味や背景を解釈する余裕を持てたし、大人になった今だからこそ、少佐やバトーといった9課の面々それぞれの心の機微に思いを馳せることもできた。特に、クライマックスでタチコマたちのAIが搭載された人工衛星米帝の核ミサイルに衝突して自爆したシーンで、荒巻課長が「部下の犠牲で核ミサイルの投下は防げた」と言ったときには、タチコマのことを部下という課長の懐の深さにグッときたし、バトーが「素子ぉー!」と叫ぶお約束のシーンと、それでも結局少佐に(ある意味)振られてしまうラストシーンには、バトーの報われない一途さに同情して切なくなったりもした。

 

 

それから、菅野よう子の音楽もよかった。アニメシリーズのOSTは全作持っており、普段から時々聴いているが、何といっても核ミサイル接近中に流れる「i do」の切ないメロディには胸を打たれずにはいられなかった。そして驚くべきは、同曲がこのシーンで流れるということを、過去1回しか視聴していないにも関わらずはっきりと覚えていたことだった。それほどまでに、この美しい曲が、核投下という極限状況のこの場面で流れることが、鮮烈で劇的な印象を残したということにほかならない。菅野サウンドに改めて圧巻され、サントラ3本をもう一度すべて聴き直してみたいと思った。

 

 

そのほかにも、印象的で多義的な登場人物たちのセリフのことを語り出したら、枚挙にいとまがない。ゴーダの「わが国は脳こそ資本主義を名乗ってきたが、実情は理想的な社会主義国だ。」とか、クゼの「水は低きに流れ、人もまた低きに流れる。」は色々な解釈ができて、前者は経済学を学んだ身として特に納得するところがあるし、茅葺総理の「一身独立して一国独立す」は福沢諭吉の言葉からの引用だということを知っていればこそ、その覚悟の重みが伝わってくる。

 

 

招慰難民問題という本作のテーマも、現在世界で、特に欧米各国で深刻化する移民排斥の動きやそれを発端とする世論の分断・対立の深刻化の状況を見るにつけ、リアリティの高さ、押井守監督と神山健治監督の先見の明の鋭さに驚かずにはいられない。複雑で解決が困難な問題を、単純な二項対立の構造にこじつけることで、世論を特定の方向に誘導しようする情報操作(ゴーダの手による「プロデュース」の意味や内容はもう少し異なるが)は、極右政党等がしようとしていることそのものだと言っていいだろう。

 

 

やはり、攻殻シリーズは「いい大人こそが観るべきアニメ」「大人だからこそ楽しめるアニメ」だということを、今回改めて実感した。その想いの溢れるあまり、ついついこのような感想を書かずにはいられなかった。ただ、5月から時々早起きしては、コツコツ視聴して楽しんできたものが終わってしまったことには、一抹の寂しさを禁じ得ない。自分の今年の夏は終わった…。今は何だか、そんな気分である。

 

(40分)

祝辞

 M ちゃんが結婚した。 7月14日の大安の日に。Facebook で 本人が投稿したことで明らかになったことだった。その数日前に彼から指環の相談を受けていたので、もうまもなくなのだろうとは思っていたが、思ったより早くて少しびっくりした。これから奥さんが住む名古屋に引っ越すようだ。

 

 

 M ちゃんは自分の大学時代の同じ学部の友人で、10年来の付き合いがある。彼が新卒で上越に就職してから2年半、毎週のように会ってはダベったりご飯を食べたり酒を飲んだりして、よく遊んだものだった。箱根や関西に一緒に旅行に行ったこともあったし、スキー場に行った回数は両手では数えきれないほどだ。自分にとって忘れがたい多くの思い出を共有する大切な友人の晴れの門出を、心から嬉しく思っている。1番最近会ったのは、3月のことだ。1泊2日で上越に遊びに来てもらい、アパートに泊まってもらって、一緒にドライブしたり飲みに行ったりした。彼女の話もそのときに聞いていた。遠くに行ってしまうと聞いて、正直少し、いやだいぶ寂しいのは事実だが、それが彼が自分で選んだ道である以上、自分は彼を全力で応援する。自分の弱さをさらけ出せる人懐っこい性格が彼の魅力だから、新天地でもきっと奥さんと一緒にうまくやっていけるだろう。

 

 

これで、今も付き合いのある大学時代から友人は、全員結婚したことになる。願わくば、彼の進む道に幸の多からんことを。

 

(20分)