ピリオド

昨日の朝、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGを観終えた。大学1年のときに初めてDVDを観て以来、約13年ぶり2回目の視聴だったが、攻殻のことを何も知らない状態だった当時とは全く異なる味わいがあった。

 


攻殻の特徴としてよく語られるのが、1話あたりの情報量が膨大だということだ。大型放射光施設「SPring-8」だったり、放射能除去装置「日本の奇跡」だったり、何の説明もなく、実在のものと架空のものとが混在した形で矢継ぎ早に登場するキーワードの数々に、初見当時は自分もかなり翻弄されたと思う。だが、アップルシードも含めた士郎正宗作品の世界観に関する知識を蓄え、現実世界の知識も強化した今の自分には、それらは壁とはならず、むしろ物語をより深く楽しむための助けとなった。

 

前回の視聴で、一通りのストーリーと結末が分かっているからこそ、登場人物のセリフを単語レベルで聞き取ってその意味や背景を解釈する余裕を持てたし、大人になった今だからこそ、少佐やバトーといった9課の面々それぞれの心の機微に思いを馳せることもできた。特に、クライマックスでタチコマたちのAIが搭載された人工衛星米帝の核ミサイルに衝突して自爆したシーンで、荒巻課長が「部下の犠牲で核ミサイルの投下は防げた」と言ったときには、タチコマのことを部下という課長の懐の深さにグッときたし、バトーが「素子ぉー!」と叫ぶお約束のシーンと、それでも結局少佐に(ある意味)振られてしまうラストシーンには、バトーの報われない一途さに同情して切なくなったりもした。

 

 

それから、菅野よう子の音楽もよかった。アニメシリーズのOSTは全作持っており、普段から時々聴いているが、何といっても核ミサイル接近中に流れる「i do」の切ないメロディには胸を打たれずにはいられなかった。そして驚くべきは、同曲がこのシーンで流れるということを、過去1回しか視聴していないにも関わらずはっきりと覚えていたことだった。それほどまでに、この美しい曲が、核投下という極限状況のこの場面で流れることが、鮮烈で劇的な印象を残したということにほかならない。菅野サウンドに改めて圧巻され、サントラ3本をもう一度すべて聴き直してみたいと思った。

 

 

そのほかにも、印象的で多義的な登場人物たちのセリフのことを語り出したら、枚挙にいとまがない。ゴーダの「わが国は脳こそ資本主義を名乗ってきたが、実情は理想的な社会主義国だ。」とか、クゼの「水は低きに流れ、人もまた低きに流れる。」は色々な解釈ができて、前者は経済学を学んだ身として特に納得するところがあるし、茅葺総理の「一身独立して一国独立す」は福沢諭吉の言葉からの引用だということを知っていればこそ、その覚悟の重みが伝わってくる。

 

 

招慰難民問題という本作のテーマも、現在世界で、特に欧米各国で深刻化する移民排斥の動きやそれを発端とする世論の分断・対立の深刻化の状況を見るにつけ、リアリティの高さ、押井守監督と神山健治監督の先見の明の鋭さに驚かずにはいられない。複雑で解決が困難な問題を、単純な二項対立の構造にこじつけることで、世論を特定の方向に誘導しようする情報操作(ゴーダの手による「プロデュース」の意味や内容はもう少し異なるが)は、極右政党等がしようとしていることそのものだと言っていいだろう。

 

 

やはり、攻殻シリーズは「いい大人こそが観るべきアニメ」「大人だからこそ楽しめるアニメ」だということを、今回改めて実感した。その想いの溢れるあまり、ついついこのような感想を書かずにはいられなかった。ただ、5月から時々早起きしては、コツコツ視聴して楽しんできたものが終わってしまったことには、一抹の寂しさを禁じ得ない。自分の今年の夏は終わった…。今は何だか、そんな気分である。

 

(40分)

祝辞

 M ちゃんが結婚した。 7月14日の大安の日に。Facebook で 本人が投稿したことで明らかになったことだった。その数日前に彼から指環の相談を受けていたので、もうまもなくなのだろうとは思っていたが、思ったより早くて少しびっくりした。これから奥さんが住む名古屋に引っ越すようだ。

 

 

 M ちゃんは自分の大学時代の同じ学部の友人で、10年来の付き合いがある。彼が新卒で上越に就職してから2年半、毎週のように会ってはダベったりご飯を食べたり酒を飲んだりして、よく遊んだものだった。箱根や関西に一緒に旅行に行ったこともあったし、スキー場に行った回数は両手では数えきれないほどだ。自分にとって忘れがたい多くの思い出を共有する大切な友人の晴れの門出を、心から嬉しく思っている。1番最近会ったのは、3月のことだ。1泊2日で上越に遊びに来てもらい、アパートに泊まってもらって、一緒にドライブしたり飲みに行ったりした。彼女の話もそのときに聞いていた。遠くに行ってしまうと聞いて、正直少し、いやだいぶ寂しいのは事実だが、それが彼が自分で選んだ道である以上、自分は彼を全力で応援する。自分の弱さをさらけ出せる人懐っこい性格が彼の魅力だから、新天地でもきっと奥さんと一緒にうまくやっていけるだろう。

 

 

これで、今も付き合いのある大学時代から友人は、全員結婚したことになる。願わくば、彼の進む道に幸の多からんことを。

 

(20分)

取捨選択 通算その4

気がついたら「はやぶさの日」(6月13日)の日で、誰かに「今日は何の日か知ってる?」と尋ねてみようと思ったのに、仕事をしていたらそのことをすっかり忘れてその日を終えてしまった。次に気がついたら夏至が過ぎていて、せっかく日の出が早くなってきたのにこれからは短くなる一方だ、朝の時間をもっと活用しないと、と焦ったものの、日中のそれ以外の焦り要素が多すぎてすぐに頭の片隅に追いやられてしまった。そして気づけば今日から7月で、今年も下半期に突入することになり、時間が恐るべき早さで、というよりもはやその感覚を実感できないほど、人知を越えたスピードで、過ぎていることに嘆息せざるを得ない。

 

 

そんな日常だからこそ、思考・習慣・趣味等の取捨選択を進め、自分の頭の中や身の回りの物事をシンプルにしていくことは、非常に大切なことだ。というわけで、シリーズ記事「取捨選択」の第4弾ということで、6月の1ヶ月の間に止めたこと、手放したものを書き出してみる。(なお、従来の「○○編」というくくりは面倒なので止めた。これも取捨選択の一つだ。)

 

 

(1)Fitbit Charge3

6月の途中から使用を中止。欲しいと言う同僚がいたので、まだ半年しか使っていないが購入価格の半値以下で売却した。止めた直接の理由は、バンドの色が気にくわなかったこと。交換用バンドもぱっとしたのが見つからなかった。でももっと大きな理由は、Fitbitを常に左腕につけているせいで腕時計を使う機会が全くなくなってしまったことへの不満だった。2017年1月に買った前機種Charge2も含めて2年半毎日24時間身につけていたものが消滅したことで、未だにスースーする違和感は残っているが、代わりに腕時計をつける楽しみが復活した。それは非常によかったと思う。運動量の計測、睡眠時間把握のツールがなくなってしまったのは若干不便ではあるが、特段支障はない。そもそも、それは別に機械で記録・管理しなくても、実際に運動して、しっかり眠れば済む話である。将来的に、Fitbitのような機能を搭載したG-SHOCKやオシアナスが登場すれば、購入を検討することもあるかもしれないが、ただそれだと24時間装着することにはなじまないだろう。今の結論としては、腕時計タイプのライフロガーは自分にはもういらない、ということだ。

 

 

(2)コンパクトデジカメ DSC-HX10V

2012年に購入したソニーのデジカメを売却した。買値の1割程度だったが、7年使い込んだ中古品だから、妥当な水準だろう。ドイツ研修にも連れて行った相棒というべき存在で、古くなっても使い勝手のよさは全く衰えていなかった。ただ、このデジカメが便利すぎるせいで、2014年に買った一眼レフが完全に置物状態になっていたので、一眼の使用頻度を高めるために退場してもらうことにした。非常に思い入れはあったが、だからといって箱に入れてしまっておいても陳腐化が進む一方なので、手放すことにした。

 

 

(3)ガラケー

そして昨日をもってドコモのガラケーを解約した。高校生になった2003年からドコモを16年間続けてきたが、これで完全に縁が切れた。(まあ、dポイント(dカード)は今後も使うことになるが。)直接のきっかけは、1ヶ月前に夫婦げんかで妻に折りたたみケータイを真っ二つに破壊され使用不能になったことだったが、その後1ヶ月ガラケーなしで生活してみて特段問題はなかったし、2台持ちのメリットも感じられなくなっていたので、思い切って解約した。これにより、16年間使ってきたケータイ番号も消滅。解約後に試しに電話をかけてみたら、「この番号は現在使われておりません」という自動音声が流れてちょっと寂しい思いがした。思い入れはあったが、昔の友人から電話がかかってくることはないし、今付き合いのある友人知人とはほとんどLINEでやりとりしているし、何より個人情報が名簿業者に流れていて勧誘の電話がかかってくるのに嫌気が差していたので、手放すのが妥当だと判断した。

 

 

近況報告は以上。これからも思い切った取捨選択を進めていきたい。

 

(40分)

願望

思い切り運動したい。体を動かして思い切り汗をかいて、ぼろぼろのくたくたになった後で、シャワーを浴びてすっきりしたい…。今の自分に一つだけわがままが許されるなら、それだけを望む。自転車でも、バドミントンでも、ランニングでも何でもいいから、とにかくスポーツがしたい。週1回、1時間だけで構わない。ただそれだけで、欲求不満の全ては解消される。

山菜採り:2019/5/18

今朝、というか、つい今しがた、実家の近くの山で山菜採りをしてきた。同僚のおじさんと2人で朝5時に待ち合わせをして行ったのだが、当初の目的地だった山の奥のほうの場所が冬季通行止めで行けなかったので、急きょ別の場所に変更。ワラビやウドの芽を採取した。雪解け直後を狙っていた当初の場所より標高が低く、時期的に遅いのであまり採れなかったのだが、それでも夕飯1回分のおかずにするには足りるくらいは採れた。帰りに実家に寄って山菜を預け、家族に調理を依頼。夕方にはウドの芽が天ぷらに化けているだろうから、また受け取りに行くつもりでいる。当初の当てが外れてお目当ての山菜を採り損ねたおじさんには申し訳なかったが、お互いまた来年のリベンジを誓ったので、次回はもっと大漁を目指したいと思う。もちろん、全て採らずに他の人のために残しておく、というルールは守った上での話なのは言うまでもない。


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(10分)

年休取得義務化(達成)

労働基準法の改正に伴い、2019年4月から、年間5日以上の年次有給休暇(年休)の取得が義務化された。対象は「法定の年次有給休暇付与日数が10日以上の全ての労働者」となっていて、基本的には常勤で1年以上働いている人は全員これに該当すると考えて間違いはないだろう。当然自分も該当するし、自分の職場でも「年休を5日以上取ること」「年休取得計画表を作成・提出すること」を求められている。

 

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自分も計画表を作ったし、6月までに5日分取得する予定だったのだが、予定より早く今日の時点でこの目標を達成することができた。その理由は、子供の発熱で今日の午後から半日休を取ったため。自分はこれにより、年休が付与される1月から起算して、1日休と半日休の通算の取得日数が5日に達した。実は同様の理由で、昨日も午前半日取得しており、大型連休前最終日も午後休を取ったほか、4月中にも複数回年休を取っていたので、4月からの1ヶ月で瞬く間に消化したというのが実情である。時間休も通算1日分取得しているが、1時間単位の時間休は労基法に規定がなく、個別の労使協定で定めることで認められるものなので、「年5日」の対象外だ。そもそも時間休は、労働者に十分な休養を取らせ、ゆとりを持った生活ができるようにするという有給休暇の趣旨にそぐわないため、年間5日分までに制限されている。そういうわけで、制度開始早々、自分はノルマ(という言い方も、法の趣旨にそぐわないが)を達成したし、今後も子供の急病でガンガン消化することになると思う。今までずっと年休を消化できずに、繰り越せない分を無駄にしてきたので、理由はどうあれ消化できるのは非常にいいことだと感じている。子供の発熱は偶発的かつ不可避なものだし、幸い大事にも至っていない。ただし、休んだ分の仕事のしわ寄せは当然生じるので(今は事実上後回しでやりすごしているだけ)、今後、担当業務に習熟して、どれだけ能率を上げていけるかが問われることになるだろう。労働時間の長さではなく、扱った仕事の量や成果に基づく労働密度の高さで評価する考え方を定着させる契機になれば、真の意味で働き方改革にも資するというものだろう。ただし、職員の半数が50代という今の職場の状態を鑑みて、そうした考え方に転換していく可能性は万に一つもなさそうなのが残念なところだ。

 

(30分)

 

 

<2019/05/10追記>

もっとも、年5日が義務化されるのは、改正法の施行以降に最初に年10日以上の年次有給休暇を付与する日(基準日)からなので、基準日が1月1日である自分の場合は、厳密には来年1月以降に改正法の対象となると思われる。とはいえ、少なくとも今年中はもうこのことを意識しなくてよいという意味では、ノルマ達成と捉えてよいだろう。

プライバシーの消失

自分には妻に対してプライバシーを主張する権利がない、といったら驚かれるだろうか。自分の個人情報・・・日記、手帳、写真、人間関係等は、全て妻のチェック対象となっており、ケータイやスマホの中身も、妻が好きなときに自由に閲覧できる状態に保たれているのである。スマホは画面ロックをかけてあるが、自分の手元にあるときは自動で解除される特殊な設定になっており、家にいるときはその状態から妻が勝手に閲覧できるという訳だ。このブログも、妻のスマホチェックの際に「はてなブログ」のアプリを操作されたことをきっかけに、随分と前から妻の知るところとなっている。これらを妻に見せることを拒むのは、実態はどうあれ、外形として、見られて困るような何かがある、ということを意味することになってしまう。だから、いかなる場合でも抵抗は厳禁である。妻と一緒にいるときにケータイ、スマホを理由もなく操作することも、何か秘密でもあるのかとイメージさせる恐れがあるほか、家族と過ごすよりスマホいじりのほうが大事なのかという誤解を招く懸念もあるため、同様に厳禁であり、特にアパートでは基本的にスマホは使わないことにしている。

 

 

つまり、自分は妻に対して一切の秘密は持てないし、秘密が必要になるような状況、説明のつかないはそもそも作ってはならない状況下に置かれているのである。一方で、妻のプライバシー権は厳重に確保されており、自分が妻のスマホをいじるなどということは言語道断とされている。また、妻が自分と一緒にいるときにスマホをいじることは何ら問題とはならないし、言動から察するに某無料マンガアプリを相当長時間利用しているようだが、仮にそれを指摘したところで妻の不興を買う以外の効果はない。

 

 

一見すると理不尽にも思えるかもしれないし、人によっては「夫にも人権を!」と抵抗したくなることがあるかもしれない。だが自分は、この状況に対して不満はない。もちろん、何でもかんでも見られるのは、決して自らすすんで作った状況ではないし、勘違いで誤解されることもあるから「はい喜んで!」という気分ではないことがあるのも事実だが、それを憤慨することは決してない。なぜなら、昔から「お天道様が見ている」と思って、ここにいない第三者を意識して行動をしてきたし、記録も誰かに読まれることをある程度想定して作ってきたからだ。その行動原則に沿っている限り、「誰にも知られてはならない」という後ろめたい感情を伴う行動は起きることはない。だから、仮に妻以外の誰かが同じように自分の個人情報をのぞいてきたとしても、多少の恥ずかしさこそあれど、秘匿しなければならないようなことはまずないと言える。だからこそ、このブログに赤裸々に、かつ堂々と、これまで様々なことを書き残すことができたのだ。こういう考え方が、自分の人生を貫く軸としてこれまで積み重ねられ、継続されてきたということは、自分にとって一つの財産といっても過言ではないだろう。

 

 

とはいえ、おそらくどこの家庭も、状況としては似たようなものなのではないだろうか。そして、そこで中途半端に秘密を作ろうとしたりするから、色んなトラブルに発展するのではないだろうか。妻をお天道様だと思っていれば、隠そうとすることの無意味さ、不可能さは容易に理解できると思うのだが。世の中の旦那さんたちが、プライバシーを消失することによるある種の「心の自由」を享受できるようになって欲しいと、勝手ながら願っている。

 

(50分)